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2011.04.08 Friday | by スポンサードリンク

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織田信長居館発掘のレーポート

2009.02.20 Friday | by gifu-kt
今から440年前、天下統一を志した信長は1567年34才の時岐阜に入りました。 
その2年後の1569年ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスはキリスト教布教の許可を得るために岐阜の信長を訪ねております。
その時のようすがフロイス著書「日本史」に記されており信長の館や庭園についても紹介されております。  その日本史にはこう書かれております。 『*金華山麓の信長居館は、巨大な石垣や「劇場のごとき大なる家屋」、「クレタ(ギリシャのクレタ島に栄えた古代文明。)の迷宮」のような複雑な構造である。 居館は4階建てで、1階が舞台のような大広間、2階は家族の居室があり、美しい襖でいくつかの小部屋にしきられており、3階は閑静な茶室、4階からは岐阜町が展望できると記してあります。また、庭には白砂で敷きつめられた池があり、中には美しい魚が泳いでおり、池の中には小島があります。』 そしてフロイトは『信長公が入城してわずか2年の間に華麗なる館を建造し、文化的には楽市楽座令により全国から商人や品物が集まり多くの人々が往来した岐阜町』の繁栄ぶりについても記してております 。
 今回、私達は現在発掘調査中のこの歴史の舞台となった、岐阜公園内にある信長居館跡を探訪することになりました。
 3月初めの薄曇りの中、遊具場には親子連れ。子供達のグループ、家族連れ、山登りを終えたリュック姿の年配者で園内はあいかわらず賑わっていました。 居館跡はどこにあるんだろう。 そんなことを思いながら歩いて行くと金華山の裾野、ロープウェイ乗り場の裏手あたりの階段を登り切ったところにそれはありました。
現在発掘調査まっただ中と言う感じで青いビニールシートがいたる所にかけてあり、県の教育委員会の方が寸法や図などの作業をしてみえました。 囲いの中をのぞいてみると石と土が積まれたところ土台かな、溝らしきところ、ここに建物があったの?庭園や池もあったらしい。--とボランテアのガイドさんが訪問者に説明されてみえました。
 右手、明治天皇像のあたりに行くとブルーシートがかけられ調査中のところが数カ所ありました。ここは何の跡なんだろう。すぐ目の前には山が迫っています。辺りをグルグル見回し う〜ん、本当にこの場所に信長の居館があったのかなぁ。確かに少し小高い場所にあり当時としては岐阜の街を全て見下ろす事ができる場所でした。 どんな建物だったんだろう?庭や池はどこにあったんだろう?想像してるうちになんだかワクワク、楽しくなってきました。建物など何にも無いけれど想像できる場所がある事が唯一の楽しみです。
 信長と言う人物がこの場所で天下統一と言う大きな構想を考え実行に移す事を日々考えていたのだと思うと、 早く何かしらの根拠が出てくる事を期待しずにはおれないと思いました。 信長は岐阜在城9年の後さらなる天下統一をめざし岐阜城から近江(滋賀県の安土)の安土城へと移りました。
 岐阜の居館跡同様「幻の名城」と言われる絢爛豪華な安土城にもいろいろな歴史とロマンがあります。 信長の事を書きしめした信長公日記の建築施工の記述によると『築城大工は熱田神宮の宮大工岡部又右エ門父子、外観の石垣積みは職人集団 穴太衆(あのうしゅう)の戸波一門、内装は襖、障壁画絵師の狩野永徳父子、きらびやかさを演出した金工・後藤、鉢阿弥一門など当時一流の職人集団により造営された』とあり、当時の職人の中でも一流の技術者をそろえたのでした。  
現在、岐阜公園内の信長居館跡の建築基礎の確認はされておりませんが、決定的な物証が出る事によりあのまぼろしの安土城と岐阜城との関係とそして新しい歴史が発見され今日の私達に夢を見せてくれる事と思います。 
今回、居館跡を訪ねそれぞれが思いのままにに想像したり推測したり話はどんどん膨らんでいきました。 
現段階では、国の史跡指定にはなっておりませんが今後の調査に期待をこめ、「居館跡・安土城ともに復元された建物をぜひ観てみたい」とそんな壮大な歴史ロマンに触れた一日でした。 ------------------------------------------------------------------------------  123

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